2017年01月25日

“恐怖政治”   1テーマ5分で原因と結末がわかる世界史 関 真興(せき しんこう)

「歴史からはたくさんのことを学べるが歴史は繰り返さない」
(国が滅びるということ 佐藤優  竹中平蔵)

啓蒙思想に導かれたフランス革命は、穏健派が中心だったイギリス革命
とは対象に、革命の担い手が急進派へと急激に変化していった。
その頂点に立つのがロベスピエールだった。

ロベスピエールが指導するジャコバン政権は、1793年に男子普通選挙など
を定めた憲法を制定した憲法を制定し、また農民に無償で土地を分配した。

一方でマリ=アントワネットなど反革命と目された人物が次々にギロチンで
処刑された。

土地を得て保守化した農民や中産市民は1794年7月27日、ロベスピエール
を失脚させた。<テルミドールの反動>
(1テーマ5分で原因と結末がわかる世界史P216 恐怖政治)

この後、ジャコバン派による共和政が開始され、ルイ16世や反革命派は
次々に処刑されます。

そしていよいよ、あの英雄ナポレオンが登場します。(^_^)



穏健派と言われるオバマ氏から、アメリカファースト(露骨な国家主義)の
トランプ氏が大統領に就任しました。

規制緩和や減税を実施したものの、環太平洋連携協定(TPP)脱退など、
各国が苦労して築きあげてきたものを放棄しました。

そして今、世界中でトランプ氏に対するデモが起こっています。

はたしてトランプ氏がナポレオン(英雄)になるのでしょうか?
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2014年10月11日

不死鳥・ケ小平の開放政策  (裏切りと粛清の中国 近現代史より)

 もし1977年にケ小平が副首相に就任し、“改革開放路線”を実施し
てなければ今日の中国の成長はなかったと言われてます。

ケ小平は1904年8月に四川省広安県で生まれました。
1920年 フランス留学 その後ソ連に。
     社会主義運動の担い手となる人材を育てる東方大学に入学

1927年 中国に帰国 
     中国共産党に入り、毛沢東と知り合い、農村部のゲリラ活
     動を展開
1935年 周恩来の助力で中央書記
     長征、抗日ゲリラ戦線に参加

1967年 共産党総書記の地位に登るが、文化大革命を展開する毛沢東
     に資本主義的であると批判され失脚

1973年 国家主席だった周恩来により補佐として指名される
     新日鉄や新幹線など日本の技術導入に積極的

1976年 周恩来死亡により、文化大革命の勢力により再び失脚
     同年9月毛沢東死亡により文化大革命終了

1977年 副主席に就任
    「改革開放路線」
     ・人民公社解体
     ・深圳(しんせん)などを経済特区
     ・規制撤廃 自由な経済活動

1980年代 毎年4〜5%の経済成長を実現
posted by さっとん at 18:28| Comment(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年10月02日

毛沢東時代の外交と日本外交正常化    裏切りと粛清の中国近現代史 (P78〜110) 実業之日本社

1970年 国家主席 毛沢東78歳
国務院総理 周恩来74歳

当時、中国はフルシチョフ率いるソ連と核戦争の危険がささやかれる
ほど悪化していました。

同じ社会主義であり、毛沢東の中国はソ連の支援を受け建国されました。
建国前からソ連のいうことを聞いていこうという趣旨で動いてました。
建国後は、「中ソ友好同盟相互条約」が結ばれます。

しかし、ソ連共産党第20回大会でフルシチョフは痛烈なスターリン批
判を展開します。
レーニンとともにソ連を建国したスターリンは、レーニンなき後、独裁
者として多くの人々を処刑しました。

毛沢東はスターリンを神格化・個人崇拝することで自国の権力を運営し
ていたため、スターリンが否定されることは毛沢東を否定されることに
なるため、フルシチョフのソ連への批判を強めていきます。

フルシチョフは対外的にアメリカなど西側諸国との平和共存を図るこ
とで、逆に中国や社会主義国と激しく対立するようになります。

1972年2月ニクソン大統領が中国を訪問し、米中の国交が正常化

対中政策でアメリカに遅れをとった日本は、

1972年9月 田中角栄首相が中国を訪問、「日中共同声明」を発表。
田中角栄は、中国との国交を結ぶために台湾との断交を決意し、周恩来に
表明します。
当時、台湾との断交に反対する勢力から脅迫を受け、殺されることも
覚悟していた田中角栄に周恩来は感銘したようです。

1972年11月に日中国交回復を記念して中国から「カンカン」「ランラ
ン」が送られます。


日本の教科書では習わないこと人間のドロドロな部分が書かれており、
大河ドラマを見ているような感覚で読めてしまいます。

posted by さっとん at 21:59| Comment(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月13日

GEOで「項羽(こうう)と劉邦(りゅうほう)2」を借りる。

 昨日(2/12)の日経で、中国の名門劇団、天津京劇院による京劇「
覇王別姫〜漢楚の戦い〜 (はおうべっき〜かんそのたたかい)
が、5月
から上演されることが大きく伝えられてました。

 舞台はBC206年の中国・秦(しん)の滅亡後、楚(そ)の項羽と漢(かん)
の劉邦が覇権を争います。
その戦いに敗れた英雄の項羽と愛妾虞姫(あいしょうぐき)との永遠の別
れが見所のようです。

“四面楚歌”という言葉の語源も「項羽と劉邦」からきています。
楚(そ)の項羽(こうう)が、四面を囲む漢(かん)の劉邦(りゅうほう)の
軍の中から楚の歌を聞き、楚はすでに漢に落ちたのか、と驚き嘆いたこ
とからです。

 虞姫(ぐき)が当たり役となった梅蘭芳(メイ・ランファン)は、京劇に
近代演劇の手法を取り入れて、芸術性を高めた中国の国民的俳優でした。

日本にも戦前(1919年、24年)と戦後(1956年)に来日。
異なる民族、歴史を背景とする人々が文化を通じて理解しあうことが、
平和な世界を育むとの信念からでした。
 
 歴史ものはビデオで背景が見えてくるとかなりおもしろくなってきま
す。犬


梅蘭芳生誕120周年記念事業
京劇「覇王別姫〜漢楚の戦い〜」 
http://www.nikkei-events.jp/concert/kyougeki2014.html



posted by さっとん at 23:06| Comment(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月04日

焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)

 ビデオの「項羽と劉邦」は、歴史の知識の乏しい僕でもその時代のイメ
ージがわかり、さっそく"項羽と劉邦 横山光輝 著者"を251円でアマゾン
で購入しました。(1円+送料250円)

 紀元前の中国では、韓(かん)、魏(ぎ)、趙(ちょう)、斉(せい)、燕(え
ん)、楚(そ)、秦(しん)の7つの国が争ってました。

その中で秦王(しんおう)の政(せい)が天下を取りました。(BC221 始皇帝)
宦官(かんがん)の趙高(ちょうこう)は、始皇帝のお気に入りでした。

宦官とは、男性のシンボルを切り取り、生涯欲におぼれず、身を清めて、支
配者とその女たちの身辺の世話をする役目です。

 始皇帝は徐福(じょふく)に、"不老長寿"の薬を探しに行くように命じます。
なかなか帰ってこない徐福を探すよう蘆生(ろせい)に命じます。

蘆生は東華山(とうかざん)で仙人から"仙書"をもらい、それを始皇帝に届け
ます。

今で言う補佐役の丞相(じょうしょう)の李斯(りし)に解読させます。

そこには"胡(えびす)が秦を滅ぼす"と書かれてました。
                      ※胡とは匈奴(きょうど)

 始皇帝は、蒙恬(もうてん)将軍に、万里の長城を作るために国中の農民を
集めるように命じます。

狩り出された農民が現場に一日遅れると「打首」という法も作られました。

狩り出された農民で無事に郷土に戻れたものはほとんどなく、人々の怨嗟
(えんさ)の声は日増しに高まるのでした。

 それまで儒者が儒学書を引用して政府批判をするのを抑えるために、書物
をすべて焼き払い、始皇帝の政治を批判した儒者は穴に入れられ生き埋めに
されました。(焚書坑儒)

 ビデオのおかげで中国の歴史に興味がわいてきました。犬
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posted by さっとん at 22:35| Comment(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月02日

「鴻門(こうもん)の会」

 2月1日の日経"ヘルス この一手"の荒巻麻子さんの「淡水化物の取りすぎ」
に、世界ガン研究基金による「栄養とがんについてのまとめ」で、穀物の多食
はある種のがんに対するリスクを上昇させる可能性ありとのこと。

炭水化物を極端に控えるダイエットも問題視されていて、ご飯を1口だけ減量
することが大事なのだそうです。


 「項羽と劉邦 Vengeance」も「鴻門(こうもん)の会」まで来ました。
 BC209年、秦(しん)の横暴に項羽(こうう)と劉邦(りゅうほう)は協力して
反乱を起こします。

BC207年、楚(そ)の懐王(かいおう)が、秦の打倒のために、「秦の都の咸陽(か
んよう)に先に着いたものを"王"とする」と約束しました。

結局、劉邦が先に咸陽に着き、項羽は激怒!
その怒りを納めるために、劉邦は項羽の陣地に入り謝罪します。
これが有名な"「鴻門(こうもん)の会」"です。

 戦略や指揮を助ける職務を"軍師(ぐんし)"と言います。
劉邦には「張良」、項羽には「范増(はんぞう)」という優秀な軍師がつい
てました。

張良と范増は、囲碁で劉邦の捕虜の生死をかけた戦いが行われます。

張良:今、天下は乱れ民は絶望している。

范増:乱世を収めるためには戦は避けられない。
   人案じれば殺人も可なり。
   服さなければ倒すのみ。

 今の日本とどこかの国のようなやり取りです。

結局、劉邦を殺害できなかったことで、策士・范増は失望し項羽と
距離を置くようになりました。

劉邦は左遷され漢王となります。
その後、范増が恐れていた通り、項羽と戦うことになり、人望を失
っていた項羽は敗れるのでした。

 
posted by さっとん at 22:22| Comment(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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