明倫小学校でも野球のセンスは抜群で、早くも全国に沢村ありと言われ、新設の京都商業に入学します。
その速球は京都商業を3度も甲子園に導き、当時とても人気のあった六大学(慶応)かプロ野球に入るかで
17歳の少年は迷います。
昭和11年に全米オールスターとの選抜チームに抜擢され、ベーブルース、ゲーリックなどのスターをきりきり舞いさせて、アメリカでも語り草になります。
その年に日本のプロ野球が産声をあげます。
当時(戦前)は、戦争があり兵隊に行くことが義務付けられていたため、どうせ死ぬのなら生きているうちに好きな野球を思う存分やりたいとプロに入ることを決意します。
プロでの沢村は剛速球で三振の山を築き、最優秀選手に選ばれます。
ところがその年、招集令状が届き、中国に派遣された沢村は手榴弾を投げすぎて肩をこわします。
昭和15年に日本に戻り、プロ野球に復帰しますが、以前のスピードはなくなりコントロールで抑えるピッチャーとして見事復活します。
しかし、翌年またも招集令状が届き戦地に赴(おもむ)き、ここで命綱だったコントロールも失います。
昭和18年日本に戻った沢村は投げるたびに打たれますが、誰も彼を咎める(とがめる)ものはいませんでした。
昭和19年台湾沖の東シナの海で戦死、27歳でした。
こんな偉大な人が僕の身近で生きていたのかと思うと、自分に負けてはあかんと思えてきます。
沢村栄治